新作へ 森の渇きと…

 2023年は創作活動を控え、身体の調整と加速度を増して進化続ける情報機器などのツールのノウハウや仕組みなどを学んでいました。
その間、社会で引き起こされる非情な事件や無感性な社会発展を見て、これからの活動をどうしていくのか?どう伝えていくのか?と、自問していました。
応えはいつも出ませんが、軸を放すことなく思ったことをしていくと、「自分の道や方法になる」と思い続けます。改めて「人と自然の関係を書く(テーマとする)」ということに比重を置き、今後、さらに役割を超えて、大いなる生命の前に立てないかとも考えていました。

 2023年10月の半ば、和歌山県田辺を始点とする「熊野古道・中辺路」に行きました。
樹々深い中に木漏れ日が差し込む場を探し、創作の糸口にしようと考えていました。
ところが、森に入りその考えは覆されました。
「乾いている?…」

日差しが眩しい夏日。森に入るとひんやりとして気持ち良い。しかし、踏み締めるたびに土が固く、軽いような気がしてなりませんでした。
 集落を抜けたその古道には、山から湧き出る水、山の頂から落ちてくる雨が溢れないように水はけのための水路が整備されていました。できてからどのくらい経つのかわからないが、今は土や小石で塞がっていて、しばらく水が流れていないことがわかりました。
全く水の気配がないわけではなく、シダも多く生育し、水が岩に浸みでている。だが、一方で岩がひび割れし、周辺の木々の根本が抜き出しになっていました。

その時に私は、朝霧の中で暗い森を往く古代の人々を想像しました。

 日本で古代歌われていた歌(古代歌謡)には、霧や雲、雨を懐く山を詠い、人や情勢を憂やうものが多い。古代人は自然と心を通わせ、むしろ人の心が自然を変えると考えていました。
森に霧がかかるように人の心は潤いや艶を持ち 瑞々しい感性が響いていたのではないか?山上に群れる雲に、生気を感じ、粘り気のある土を踏み、命を勇ましめたのではなかったか。

 東屋(あづまや)の 末也(マヤ)のあまりの その雨そそぎ
我立ち濡れぬ 殿戸開かせ
催馬楽)
ー 男が雨に濡れながら求婚の歌を歌う ー

八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣つくる その八重垣を
(古事記・古代歌謡)
ー 和歌(31字)の始原の歌。素戔嗚の土地を褒めた婚姻歌。出雲地方の新居の祝歌 ー

小治田の 年魚道(あゆち)の水を 
間なくぞ 人は汲むといふ 時じくぞ 人は飲むといふ
汲む人の 間なきがごと 飲む人の 時じきがごと 
我妹子に 我が恋ふらくは やむ時もなし
(万葉集3260)
ー 「あゆち」とは豊かなという意味。愛知県に碑がある。愛知の語源とも言われる ー


 森で感じたのは、実際の「乾き」よりも「生命循環の渇き」。
人だけでなく、生命同士の連関が噛み合わない、「生命そのものの渇き」のようでした。
渇きをテーマに創作を始めます。

投稿者: eminakae

身体(声・動き・踊り)の表現の創作を続ける。活動のテーマは「自然の中の人」「日常の豊かさの発見」「身体感覚」。舞台空間の存在感への定評高く、最近ではショーやモデルの場にも活躍を広げる。パーフォーミングアーツコミュニティーと題し、障がいや年齢、文化背景も問わず、誰もが参加できる表現の場を広げる活動もしている。劇作、演出、作詞、作曲、役者、殺陣、舞踊家。表現クラス、声と骨クラスなど開催。https://eminakae.wordpress.com/ Emi Nakae, an artist, an dance with qigong, an composer, and as speaker.

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